みんなのガイド vol.3|ビーチクリーン事務局代表 指方 海斗
福岡県生まれ。趣味はマリンスポーツ。 昭和63年より清掃活動を展開し、地域活性を模索する日々です.。大きな経歴はありませんが「継続は力なり」を信じて日々前進しています。 「一人の人間が水路を堀り、千人の人が利用する。水路を掘る一人に成る」との決意で活動しています。 30数年利用されていなかったビーチ「うふた浜」を清掃活動と植樹にて復活させ、5月30日「ごみ0の日」の清掃完了、地域活性イベントとして毎年6月に「うふた祭り」を開催しています。
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自然を愛し、地球単位で考えて行動している人をインタビューする企画「みんなのガイド」。第3弾では幼少期からごみ拾いを始め、さまざまな事業を営みながらもビーチクリーンや町の活性化に注力する、ビーチクリーン事務局代表 指方海斗さんをインタビュー。
「誰かのために」「何かのために」アクションを起こし続ける指方さんの想いを伺ってきました。
空き瓶をリサイクルに出したことが「ごみ拾い」のはじまり
—今でもたくさんの事業をされていらっしゃいますが、今までにどのような事業を営んだり、どのような人生を送ってこられたのですか?
もともとは医療寝具の営業マンを10代の頃からやっていたんです。成人してからは独立して、建築関係の会社や飲食店を経営するようになりました。とは言ってもお金を使いすぎて22歳のころに倒産したんですけれど。(笑)
その後はちょうど今から30年前くらいに熱帯魚ブームがあったんですね。僕も流れに乗って飼っていたんですが「これはお金になるかも」と思って、23歳のころに熱帯魚の卸売会社を立ち上げたんです。
(きれいにしたうふた浜をバックに爽やかな笑顔の指方さん)
——さっそくすごい山あり谷ありの話と起業家の嗅覚の才能が垣間見えてます!(笑)
当時はお金がなかったですから、家で飼っている熱帯魚や水草が増えたものを販売しはじめて、そのあとは家庭で飼えるような金魚やカブトムシ、ハムスターが住むための藁などを取り扱っていくうちに全国に展開できるようになりまして、それこそ最初は見向きもされなかった大手量販店さんとも取引できるようになった結果、ある程度の元手ができたんです。
その後はサンゴの輸入とか、海水魚の販売などに携わっていましたね。
——商売に対する才覚と言いますか、「何か」を「どうにかしなければ」という意思の強さが伺えますね。
今思えば、「お金がほしい!」というよりも目の前にあるものに対して何かアクションを起こしたいという気持ちが強かったんだと思います。
生き物を多く取り扱う中でたくさん勉強して、たくさんの取引会社が増える中で30代の時に国連行事で九州で「アマゾン展」が開催された時に、アマゾンの環境を展示物として再現するチャンスをいただきまして。やっぱり若い時にそういうことがあると調子に乗っちゃうんですけど、プライベートも家庭も顧みず仕事ばっかりしていた結果、いろいろありまして。(笑)
——勢いがあり、そして若いからこそ失敗したものってことですね。(笑)ごみ拾いはいつごろから行っていたのですか?
幼少期のころからすでにごみ拾いはやっていたんですよ。それこそたまたまジュースの空き瓶を酒屋さんに引き取ってもらった際にお金がもらえたことがきっかけなんですけど。(笑)
当時の実家はお金がなくてお小遣いもなかったんですね。だけど空き瓶を拾ってきたら1本5円〜50円とかで引き取ってもらえるし、空き瓶だけでなく廃棄された自転車などの鉄もお金になることを知って、ものすごく拾いました。(笑)
そうしてごみを拾っていると近所の人たちからも「ありがとう」や「えらいね!」と褒めてもらえるようになったんです。これも嬉しかったですし、町がきれいになってお金にもなって、感謝までしてもらえるごみ拾いが素敵なことなんだなと、幼いころながら思っていました。
——今は沖縄にお住まいですが、そもそも沖縄とはどのような縁があったのですか?
生まれは九州ですが、父親の仕事の関係で沖縄には16歳の頃から縁がありまして、もともと2週間に1回は通っていたんですよ。2024年で沖縄と縁が生まれて35周年になります。
その時に沖縄の観光地である知念岬に行ったんですね。想像していたのは透き通ったきれいな海と砂浜だったのですが、着いてみるとなんと浜辺はごみまみれ。海はきれいなのにごみがたくさんあるのがもったいない気持ちになって。環境問題に対しての意識もこの時くらいから思い始めて、沖縄でもごみ拾いをしていました。
大人になって仕事を始めた時にもごみ拾いは時間があれば続けていましたし、なんというか「ごみを拾ってる時間はいい人になれる」みたいな気持ちですかねー。商売の世界で、自分が大好きだった生き物を商品として取り扱っていることにも心が少し病んでいましたし。
——もともと生き物が好きだった純粋な気持ちと、生き物を利用している自分とのギャップといいますか、罪悪感に苛まれていた時があったんですね。
そうですねー。それこそちょうど病みかかっていた10年前に、生き物を取り扱う商売を完全に辞めて、沖縄に移住したんですよ。お金も5万円くらいだけ持ってね。
——今までのものを捨てて5万円で移住!?とてつもない決断ですよ…。
最初は周りのみんなから「どうせ3日で帰ってくるよ。」とか「ひと月帰ってくるよ。」と言われていたんですね。(笑)
でも沖縄で10代の頃から何十年も清掃活動してきて知り合った人たちに支えられながら、帰ることもなくダイビングの免許を取ったりしながら、沖縄でも商売をしようと思いまして。
どうせなら沖縄で一番大きな会社と取引したいなと思って、スーパーやホテルなどたくさんの事業を行っている「金秀商事」さんのコンペに参加したんです。そうしたらなんと素人の僕がそのコンペを取得することができたんですね。
そこから金秀商事さんが管理している浜辺や名護市の21世紀の森公園管理責任者になったり、それ以降も飲食店をはじめさまざまなことを行うことができるようになったんですよ。
——指方さんはどこにいても必ず何かをやり遂げるバイタリティーの持ち主ですね…。
本当にありがたい限りですよ。でもその後にコロナ禍に突入したわけです。飲食などはなかなか厳しい状況でしたが、コロナ禍だと家に引きこもるじゃないですか。もともと実家が建設業だったのでいろいろ資格を持っていたりしたので、建設会社を立ち上げて、いろいろなお客さんの家に関する話を聞いていると、やっぱり不満が出てくるんです。その不満を解消するために改修工事を行なってたりしたら、今度はお金がない家庭がたくさんあることを知ったんですよ。
車や船、バイクを手放してなんとか生活をしようとしている人たちがいることを知って、そういう人たちの助けになればと思って今度はバイクのレンタカー事業海上タクシーなどで町に雇用を生み出せたらと思っています。
1人の人との出会いがうふた浜を変えるきっかけに
——とんでもなく忙しい状態ですね…。そんな中でもごみ拾いはやられていると思うのですが、ビーチクリーン事務局どのような経緯で立ち上げられたのでしょう?
10年前に沖縄へ移住してきたのですが、僕が住む沖縄の本部町(もとぶちょう)では1975年に沖縄国際海洋博覧会がきっかけで町おこしがされた町なんです。
当時は何もない町から大きな道路やホテルなども建設されて。でも海洋博覧会が終わると徐々に町も人がいなくなり、整備も疎かになり、海洋博覧会の時に使われていたビーチがいつの間にかごみ捨て場になってしまったんですね。
30数年ごみが溜まってしまったのがうふた浜なんです。
——なるほど。うふた浜をきれいにしたきっかけはどのようなことなのでしょうか。
うふた浜のとなりにモトブリゾートというホテルがあって、そのホテルの会長の仲宗根義(なかそね ただし)さんはうふた浜を作った人。杖をついたおじいさんで、たまたま知り合い、先ほど紹介した当時のうふた浜のことを聞いたんです。
その人が僕に「もう一度きれいなうふた浜を生きているうちに見たいんだよね。」と言ったんですね。それに対して、「ごみくらいだったら僕が拾いますよ。全力でやるんで、生きているうちにきれいなうふた浜を見せますね。」と引き受けたことがきっかけです。
でも当時は本当にごみの山で。車や自転車、バイク、ガスボンベが100本以上、そのほかたくさんのごみが捨てられていて、地域の人たちがごみを捨てる場所だったんですよ。もう不法投棄専門の場所みたいに。それを14年かけてうふた浜のごみをすべて拾ってきれいにしたんです。
当時はSDGsとかなかったですから、ごみを拾っているだけで警察に通報されたりもしましたね。(笑)
——14年!ものすごい根気と努力ですね!その会長さんもさぞ喜ばれたのではないですか?
5月30日が「ゴミゼロ」の日で、どれだけのごみを拾うことができたのかの結果報告とうふた浜をきれいにした記念に、音楽の力を借りてこの活動を広めようと思いまして。どうせ呼ぶなら自分が好きな人を呼びたいと思って、沖縄のレゲエシンガー「PANG」さんにメッセージを送り続けていたら来てくれることになったんです。そうして出店を用意したりアーティストを呼んだ、第1回目の「うふた祭り(ビーチクリーンフェスティバル)」を行なえることになりまして。
きれいなうふた浜にアーティストとたくさんの人が来てる中、おじいさんが杖を捨てて、腰が痛いのも忘れて踊るほど喜んでくれたんですね。喜んでくれてよかったと思ったのと、そのおじいさんに「病は気から」ていうことを教えてもらったように思います。
それからもおじいさんの意思を継いでうふた浜にもっと人がたくさん集まり、大切にしてもらえるようにと自腹でヤシの木を800本買って、7ヶ月かけて自分たちでうふた浜に植えたり、ごみを拾い続けまして。第1回目に参加してもらったPANGさんたちのおかげでMEGAHORNさん(from.MEGARYU)、PUSHIMさんなどさまざまなアーティストさんにも「うふた祭り」に参加してもらえるようになったんです。
(長い年月をかけて清掃し、ヤシの木を植えて復活した「うふた浜」)
その結果、うふた祭りに出演したいと言ってくれるアーティストの方も100人以上連絡をくれて。うれしいことなんですが、全員は出られないので残念ですがお断りするくらいたくさんの人が興味をもってくれるようになりました。
——錚々たる顔ぶれのアーティストさんだけでなく、そんなにも出演依頼があったんですね!一般の方々はどのくらいこられたのですか?
2023年のうふた祭りでは1500人の来場者の方々も来てくれて、本当に嬉しい限りです。
うふた浜の成功事例を持って過疎地域でもこういった活動ができたら、海もきれいになるし、人もたくさん集まってくれる。
だから仲良くなったアーティストのみんなにも、僕がごみを拾って道を切り開くから、同じことをほかの地域でもやろう!て言ったら喜んで応援してくれて。ほかのアーティストの人たちにも参加してもらえる機会も作ることができますし。
——まさに人を喜ばせるための清掃活動になったのと、町おこしにもなったわけですね。
本部町には美ら海水族館があって観光客は来るのですが、町自体には人があまりいないんですね。なのできれいな海も大事ですけど、こういった活動を通して町に人が来るようになってもらえたら嬉しい思いもあります。
だから本部町に道の駅を作る計画を立てているんですよ。それこそ行政の力を借りず。
(引用:みんなのちきゅう指方さん記事)
今ってコンビニでもごみ箱が外に設置してあるところってかなり減ってきているじゃないですか。その結果町にごみが増えていて。もちろんそのごみは誰が処理するのかという問題もある。なので全部自分たちの力でやってみようって。
道の駅ができたらお店も作るし、そのお店で働く人ができたら雇用も作れるし、がんばれる場所を作ることができます。若い人たちが集まって、自分たちの力で何かをする場所になってくれたらいいなとも思います。
それに今はSDGsという言葉があって、補助金が出て、それで環境に対してビジネスが動いているじゃないですか。でも補助金がなくなった後、果たしてどれだけの団体が残るのかなと思うと、そういったところが自走できるように教えてあげることも必要だと思っています。
2024年6月30日。第3回うふた祭り開催!
——今年で3回目となる「うふた祭り」について教えてください!
第3回目のうふた祭りは今まで同様にたくさんのアーティストさんにも参加してもらうんですが、PUSHIMさんや湘南乃風のHAN-KUNさんにもゲスト参加してもらうことになりました。
フードトラックやアクセサリーショップの出店もありますし、入場も無料で開催します。
(引用:本部町環境協会HP)
第3回うふた祭り
●場所:沖縄県国頭郡本部町字渡久地840-1
●開催日時:2024年6月30日(日)13:00〜22:00
●入場料:無料
そして僕も今年で沖縄に移住して35年経ちますから、若い人たちが表で頑張れるよう、このうふた祭りを僕の右腕でもありアーティストであるマンナユウナさんに引き継いでもらおうと思っています。
1年前に参加していただいたアーティストの方に「ビーチクリーンの歌」というコンピレーションアルバムを作っていただいたのですが、その時もマンナユウナさんがベースを作ってくれたんです。
(引用:沖ロコ・ビーチクリーン事務局)
なので僕個人としてはうふた祭りで来てくれた人たちで本部町の飲食店を満席にすることや、来年は個人で花火を3000発上げること、最終的には1万発の花火を上げることを今後10年の目標に頑張りたいと思います。(笑)
「人の前にあかりを灯せば我が前明らかになる」
——今回も楽しそうなうふた祭りになりそうですね!清掃活動を通してこんなにも人が集まり、喜んでくれるイベントはなかなかないと思います。
喜びを感じられることというのは、お金が財布にいっぱいあることでもなく、「人の前にあかりを灯せば我が前明らかになる」て言葉があるんですけど、自我自欲のために生きている人には何も得ることはなくて、いろいろな人たちを応援して助けていると、いつの間にか「ありがとう」のために頑張れると言いますか。
それを繰り返していくうちに、勝手に自分の生活も安定していくようになっているんですよ。
ですし、さまざまな人に関わってもらったなら、運営する側としては雇用を生み、ちゃんと賃金を払い、そして夢を見させてあげて、それを応援することは義務だと思っています。
町おこしと人おこし。世代交代で想いを繋ぐ
——今後の指方さんの目標を教えてください。
僕は本部町に住んでいるからこそ、この地域を良くしたいし、たくさんの若い人たちが過ごせるようになったらと思ってまして、道の駅もそうですが、焼けてなくなってしまった首里城のレプリカを本部町につくろうとも思ってます。(笑)
それは本部町には若い力がまだまだ足りてなくて、僕が何かをするのではなく、若い人たちが何かをできるように僕が場所とチャンスを作れるようになりたい。
20代が憧れるのは50代の僕ではなく、同じ20代だと思うんです。だからこそ20代の人たちが頑張れるような環境を作って、同年代の人たちに夢を持たせられるようなことをしていきたいと思っています。
若い芽が育つために、僕はその土になります。
KENNY
Kenny
Webライター
名古屋市在住。 グルメメディアのライター/エディターとして活動するかたわら、環境問題にも取り組むITプロダクト会社に勤務。 持続可能なデジタル社会に興味を持ち、Web3分野を勉強中。