清掃活動を始めたキッカケ vol.1|大切な心を育てる
私の活動についてお話しする前に、まずは、私の清掃活動の始まりからお話ししていきたいと思います。
なぜ、ごみ拾い?なぜ、清掃活動?など、疑問を持たれる方も多くいると思います。
※ビーチ横の駐車場に置き去りにされたゴリラのぬいぐるみ
私の清掃活動のキッカケ
私の清掃活動のキッカケは、幼少期にジュース瓶を酒屋さんが引き取ってくれたことから始まります。
昔はペットボトルは無く、ガラス瓶の再利用やごみ回収方法の1つとして、ジュース 500ミリリットル瓶が10円、1リットル瓶が30円、ビール瓶が5円、瓶ケースと瓶のセットだと500円…など、容器の大きさや種類によって不要なごみを換金してもらえる、とても素敵なシステムがありました。
リターナル瓶について
当時は、リターナル瓶と言われ、明治初め頃、海外から輸入されたワインやリキュール、ブランデーの空き瓶を買い集めて販売する商売がびん商の原点、リターナル瓶の原点と言われています。
その後、日本国内でもガラス瓶の生産が始まり1901年には一升瓶に入った日本酒が誕生します。昭和に入りガラス瓶は量産されるようになりました。
ガラス瓶の量産はびん商業界を大きく盛り上げ、当時は酒屋さんが窓口になり、多くの子供の夢や家計を支えるリサイクルだったと感じています。
次第にガラス瓶を利用した商品が減り、びん商の話題は聞かなくなりましたが、現在もびん商、空き瓶を回収したり洗浄する会社は令和の今も健在です!「全国びん商連合会」さんです。覗いてみて下さいね!
そんな空き瓶を求め、幼少期は近所のザリガニが生息する川で空き瓶とザリガニを拾い、日々自転車でたくさんの空き瓶を集めていました。
もちろん、趣味のザリガニもたくさん捕まえていましたよ!
褒められる喜び
そんな私へ近所の方が「いつもありがとうね」「えらいね」と声を掛けてくれたり、おやつをくれたり、ときには空き瓶が多く落ちている場所を教えてくれました。
また、自転車などの鉄くずが地金屋さんにて売れる事も教えてもらい、父にお願いして持ち込む許可を取ってもらった事は、今でも大切な思い出です。
当時、実家は貧しく、お小遣い1カ月200円、お年玉500円札1枚の時代に、1週間ごみ拾いをして数千円ほど稼いでいました。自分でも、過去を振り返れば凄い子供だったなと思います。
しかし、時代とともに瓶もペットボトルに代わり、ごみがお金に変わらなくなっていきました。
爆発的プラスチック製品の増加にブリキ(鉄)もガラスも主役から脇役に…。
沖縄活動の始まり
お金にならないごみ拾いから離れ、趣味を活かしザリガニ繁殖、昆虫繁殖に熱中するようになりました。
そんな、ごみ拾いから離れかけていた頃に父から「沖縄出張について来ないか?」と誘われ、1988年に沖縄へ初めて足を踏み入れました。
到着し、観光地「知念岬」へ連れて行ってもらった際に海のヤドカリに興味があり、私が初めての海にドキドキしながら向かった知念岬の下の海は、なんとごみの山でした。
※風が強い日の翌日のビーチ
たくさんの生物が生息するエメラルドグリーンの海!透き通った海水!
こんな素敵な場所なのに、もったいない!との思いでごみを拾いました。
今考えれば、この時感じた「環境を守りたい!」という想いが、純粋な清掃活動の始まりだったと思います。
清掃活動の本格始動
海で清掃活動している私に、近所の海ぶどう屋さんが、ビニール袋を下さり「ありがとう」と声をかけてくれました。
思春期の私は、褒められる事も少なかったため、その言葉は胸に熱く込み上げるものがありました。
この日をキッカケに、私は清掃活動を本気でやろうと決意し、本格的な清掃活動が始まりました!
鉄ごみをリサイクルしたお金で清掃活動をし、プラスチックごみを処理していこうと思いスタート!
一方で、ある問題も浮上しました。それは、海には鉄ごみが少なく、その引き取り価格も安すぎること。
海にあるごみは、プラスチック、ハッポウスチロール、木材など、浮遊する軽いごみが大半を占めています。
当時16歳だった私は予算など無いので、身体で勝負と知識学習を始めたのも、この時期です。
そこで、職人の父を見て育った私は「営業ができれば人に依頼できる!依頼ができれば沖縄で清掃活動ができる時間を作れる!」と、安易な考えで父の建築業の営業を行う、個人事業主の真似からスタート。
「ありがとう」は心を豊かにする力
最初は、得意なことに取り組むところからスタート!
ご近所の粗大ごみ出しの手伝い、草むしりの手伝い、掃除の手伝いなどを行っているうちに少しずつ信用を得て、最終的には住宅の物置や車庫の工事を、紹介を通じて受注してもらえるようになりました。
清掃活動する時間もなくピリピリしていた時期もありましたが、“時間を作るには、自分の時間を知ることが重要だ”と教えていただき、日々のタイムテーブル、週間予定、月間予定を何度も何度も作り直しながら、自分の時間を作れるようになっていきました。
物置や車庫を販売工事する営業マンでしたが、「ありがとう」の言葉を求め日々努力していました。私は気がつかない間に言葉の力、感謝の心の大切さを学びました。
日々の積み重ねが今の自分を作る!今の積み重ねが未来の自分を作る!
どうしようもなかった私に温かい声をかけて下さった皆さんの優しさで、今も、強く前進できると確信しています!
※約40年間放置されていたビーチをオジーの考案で復活させた場所「うふた浜」
「感謝の心」は相手や環境を思いやり、想像力の種
1人の人間が水路を掘り、1,000人の人が利用する。水路を掘る1人になります!
清掃を始めた頃に出会ったオジー(おじーちゃん)が居ます。杖をつき足腰が弱ったオジー。
オジーは日々、「若ければ一緒に町を綺麗にしたい!」「沖縄県本土復帰記念事業として開催された
海洋博覧会時代(1975年7月20日-1976年1月18日)のように、人で溢れ活気ある町をもう1度見たい!」。
そう海で語りながら、私へたくさんの夢を託していただきました。私は、オジーの夢の大きさに緊張しながらもオジーの言葉を信じ、清掃活動を全力で行いました。
そうして、開催された「ビーチクリーンフェスティバル」でレゲエシンガーPANGさんの曲をバックに踊るオジーは、足腰が弱っていたことも、杖のことも忘れ、綺麗になった海、人がたくさん訪れたビーチに喜び踊っていました。
オジーはこの瞬間から杖の要らない生活が始まり、私は“病は気から”を目の当たりにしました。
このオジーは仲宗根義(なかそね ただし)さん。ごみ拾いしか出来ない私を信じ、夢を託して下さったことは、今でも感謝しかありません。
私はこのように、幼少期から始まった清掃活動を通じ、いつの間にか育った心を大切にしています。
ぜひ皆さんにも、何か素敵な感覚を感じる清掃活動に参加して欲しいと思います。
私は素敵な感覚を感じる積み重ねが、私を強く導いてくれていると信じ、今日もビーチクリーンを行っています。
次回のコラムでは、「清掃活動の魅力とは?」についてお話させていただきます。
KAITO SASHIKATA
指方 海斗
ビーチクリーン事務局 代表
福岡県生まれ。趣味はマリンスポーツ。 昭和63年より清掃活動を展開し、地域活性を模索する日々です. 大きな経歴はありませんが「継続は力なり」を信じて日々前進しています。 「一人の人間が水路を堀り、千人の人が利用する。水路を掘る一人に成る」との決意で活動しています。 30数年利用されていなかったビーチ「うふた浜」を清掃活動と植樹にて復活させ、5月30日「ごみ0の日」の清掃完了、地域活性イベントとして毎年6月に「うふた祭り」を開催しています